さよなら、少女Y美。

中学1年の冬頃だったかと思う。

当時通っていた地元の学習塾に、中途半端な時期に入ってきたのがY美だった。

隣の席にいつも真顔で座っていて、最初話しかけたら少し迷惑そうだった。

年末に年賀状を送りたいからと当時流行っていたサイン帳(今でもあるのだろうか)を書いてもらったら、『私の第一印象』の欄に綺麗な字で「うるさい子」って書かれてて、物凄くグサっときたのを覚えている。

 

なんだか気になる存在ながらなかなか受け入れて貰えなかったのだが、

ある日私が履いていた苺柄の靴下を突然「かわいい!」と叫んで指差し、その日から急速に仲良くなった。

 白シャツに無印の色違いのベスト、黒のバミューダパンツ、ボーダーの靴下におでこ靴。黒くて四角いかっちりした鞄。

色違いの双子のような格好をして、宝島社の雑誌を共に読み漁った。

おそろいのエナメルのお財布。白をチョイスした彼女のセンスに嫉妬した、中2の冬。

 

雑誌『H』を教えてくれたのも、当時大好きだった山田詠美の話が出来るのもY美だった。ARATAが主演の『ワンダフルライフ』を一緒に観に行こうと名古屋のミニシアターに連れ出してくれたのもY美で、彼女(こうやって改めてみるととんでもなくセンスのいい中学生)と私は、ささやかで特別な時間を共に過ごした。

 

受験シーズンを目の前にしてY美は自宅近くに新設された教室に移り、塾の模試の時にしか会えなくなった私たちは文通を始めた。

ファッションのことや、最近読んだ本の話。家族、学校、塾の先生の悪口。

レターセットは無印のものか、輸入雑貨店で見つけたお気に入りを使った。

Y美はいつも手紙の最後を『少女Y美より』と締めていて、私はこれが大好きだった。

記事の最初から記してきたこの名前。私の中でY美は文字通りY美なのである。

 

高校に進むと自然と連絡の機会が減っていたけれど、それでも年賀状は送りあっていて、たまの文通も続いていて、プリクラは一方的に送りまくった気がする。

卒業後、私が1浪を経て大学に進学してから交流が再び始まり、私のアパートの部屋で飲んだりしていたが、そのうち彼女が実家に戻ることとなり疎遠になった。

大学卒業後、Y美は高校時代から志望していた公務員になり、年に1度あるかないかの近況報告メールで結婚の報告を受けた。

受験においても就職においても、彼女は人生の説目に向けて目標を常に持ち、下準備のもと夢を叶えた。彼女は、何においても目標を持たず計画性のない私の、数少ない「すごいちゃんとした友人」だったのである。

 

 2年ほど前、ふと思い立ってガラケー時代に登録したまま放置していた連絡先に新アドレスを一斉送信してみた。 殆どがアドレス不明で返ってくるなか、Y美から返信があった。

1年前に出産し、今は岐阜にある義実家の敷地内に家を建てて住んでおり、育休中だという。

久しぶりに連絡が取れた嬉しさと同時に、小さな子供がいるなら飲みに誘いにくいので残念だなと思った。数回のやり取り後、切り上げようとしたらY美の方からランチに誘ってきた。「田舎に缶詰めで気が詰まりそう。お洒落してランチしたい。」二つ返事でOKすると、「店選びお願いしてもいい?子供連れ可の店になっちゃうけどよろしくね~」と返事が来た。

文脈からてっきり子供は預けてくると思い込んでいた私はこの時少しの違和感を感じながら、突っ込めないままやり取りが終了した。

私は子供があまり得意ではない。子持ちの友人はいても、子供は預けてくるか預けられなければ私が家に行くパターンしか経験が無かった。第一、子供を連れて行っていいか私に打診がない。困って子持ちの親友に相談した。

私の子供嫌い(しかも小学校就学前の女児が一番苦手)を知っていて、Y美より数年先輩ママの彼女から得た「子連れOKの店なんて皆同じような客層で煩くて話が出来ない。大体子供が2歳未満とか絶対泣くし。打診が無いのはマナー違反だけどそこは突っ込まず、正直に『もうちょっと娘ちゃんが大きくなってから行こう』って言いな。」とのアドバイス通りY美にメールすると、子供を預けられるようにするからランチに行きたいと打診が来た。「明日の夜まで待って。今日だと旦那の機嫌が悪いかもしれない。」旦那の顔色を窺わないと自由な時間も得られないのか。自分には想像のつかない境遇に、少し胸がギュッとなった。

 

当日、数年ぶりに再会したY美はシンプルなTシャツにシフォンのロングスカート、コンバースのハイカットスニーカーで現れた。品よく纏ったコーディネートは、紛れもなく1998年を共に過ごしたあのY美の17年後の姿だ。メールのやり取りで不安を感じていた私はほっとしたし、単純に会えたことを嬉しく思った。

 

「こんなお洒落なところでゆっくりランチするの久しぶり」

よかった。私も、彼女に今の日常から離れてリラックスしてほしいと思って店を選んだのだ。

と思ったのも束の間、「隣のテーブルとの距離が近い」と吐き捨てると、マシンガンのように話始めた。

「お義母さんと毎日顔を合わせるのが苦痛。車で出かけるときに庭にいると『行ってらっしゃい』って言われるけど、腹の中では何を考えているのかわかんない。」

「お義母さんの料理がワンパターンでおかしい。職場復帰したとき子供を預けたくない。」

「小姑が近所に住んでいる。子供に着せている服がダサい。うちの子に買い与えられたら嫌だ。」

「小姑は子供が3人もいるのにうちは1人だからプレッシャーがかかる。」

「旦那は何もしない。」

「うちの子は落ち着いてベビーカーに乗れないからずっと抱っこ。買い物にもいけないの。」

「うちのこね、成長が遅いの。全然歩かないし、全然喋らない。保健所の検診で居残りになった。」

最後の発言はかなり問題がある。話を聞いている限り、Y美は子供は放っておけば勝手に歩き勝手に喋りだすものだと思っているかのようだった。旦那も彼女の言う通りの行動をとっているのであれば家庭に無関心で、2chの生活板風に言えば典型的なエネ夫だと思う。だが、今は申し訳ないがどうでもいい。

私はただただ、ネガティブな発言の連続にクラクラしていた。

 

帰宅の際、途中まで同乗した電車内では10分間「結婚して子供を産まないと一人前になれない」と分かりやすい説教を受けた。時間よ、早く過ぎろ!!何故ランチの誘いに乗ってしまったんだろう。何故折角の晴れた休日に、こんなこと言われているんだろう。彼女が降車する際には安堵感すら感じていた。折角の再会だったのに、彼女が最後どんな顔をしていたのか、どんな風に別れたのか、覚えていない。

 

 電車に揺られながら、私は彼女から昔もらった手紙の文面を思い出していた。

ルパン三世に似てる男の子を好きになったこと。彼が「広末ってかわいいよね~」って話してたってこと。彼が自分のこと、よっちゃんって呼んでること。当時学校でいじめにあっていた私は、同い年の男の子に恋することができる彼女が羨ましかった。誰に言われたわけでもないのに、いじめられている私には恋をする権利すらないような気がしていた。他の子が買ってもらえないDCブランドの洋服を着て、武装していた。

「人に好きになってもらえるわけがない」「自分を好きになるような人は趣味が悪い」そう思いながらクリスチャン・ルブタンの靴を履いていた31歳の私は、あの頃と大して変わっていない。

 

「すきってなんだろう」とか言ってた14歳。

ずっとずっとお互いに理解者で居られると思ってた。でも彼女は私の知らないところで、ずんずん、彼女が思うところの『大人』になっていた。

 

少女Y美はもういない。本当は、ずっとずっと前から音信不通だったのだ。

 

#筋肉の力でちょっと前に踏み出せる気がした

ブログ開設後一度も記事をあげることもなくもう2017年もとっくに折り返し。

 

実は去年の年末に見事 鬱の診断をうけてしまい、

年末から3月くらいまでの記憶が結構無い。

無気力な中でも確か12月1月と東京には行っていた気がする。

名古屋にいて死んでるよりかマシと思ったんだろう。

(でも頭が働かなさ過ぎてスケジューリングが出来ず死んで帰ってきた記憶)

 

で、今現在何をやっているかと言いますと、ズバリ(©丸尾末男)

毎日ジムに通っている。

マジでジムにしか行ってない。ジムと家の往復。もう通勤してる。しかも多い時で週6。社畜かよ。

 

 

鬱で死んでいた間、東京に行った以外は引きこもっていた記憶しかない。

誰にも会いたくないし、やりたいこともない。やらなきゃいけないことは何故かできない。毎日酒を飲み続けているので常にアルコールが抜けておらず、ただでさえ何も考えられない頭はどんどんダウナーに入っていく。最悪の食生活で胃も気持ち悪い。毎日やることはないからNetflixを観る。でも観たいわけじゃない。ただただリストをスクロールする。クリックしては戻って、再生しては止めて。観てない。何が見たいのか、何がしたいのか、今何をしているのかもわからないのが4か月間続いた。

 

そうして3月末、桜の開花予想がテレビから聞こえてきた時、ちょっとした焦りを感じた。「もう春なんだ」

まだ人に会いたくないし仕事ができる状態じゃない。

でも毎年自分らしさが一番発揮できる夏をこのまま無駄にしたくない。

今自分がしなきゃいけない事の中でできることは何かを考えたときに浮かんだのがダイエットだった。元々太っていたが引きこもり生活で更に太っていたのだ。

毎日セブンイレブンの白ワイン(キンタラス・カブラス・シャルドネ めちゃくちゃコスパがいい)を1~2本開けて自炊ゼロのジャンクな食生活をしていたら身長163cmで70kgを記録!!!

 

そもそも退職を決めた際、漠然ともう会社員になるのは止めようと考えていたから、一人でやっていくなら(そうでなくても)痩せて健康的になるのは絶対条件だと思った。特に女性の場合は。

最寄りのスポーツクラブに入会し、筋トレと食生活の改善に同時に取り組み始めたのが4月の頭。あれよあれよとのめり込んで、9月2日現在-8㎏。

 

トレーニングを始めて一番感じたのが、体重を落とすという目標以前にマインドがものすごく変わったことだ。

フィットネスビキニの安井由梨さんが自身の歩みを「小さな階段を毎日上っていたら頂上に立てた」とおっしゃっていたが、筋トレはまさに毎日の少しの努力の積み重ねを体感できる。

毎日小さな挫折や小さな達成感を感じつつ、続けることで確実に成果が見て取れ、小さな自信につながる。よく考えたら何かをきちんと継続した経験の無い人間の私にとっては筋トレを通して人生のなんかが見えてるように感じた(こうやって書くとなんかキモ怖い&なんかって分かんないのかよ)。起業塾などで「小さな成功体験の積み重ねが自信につながり、大きな成功へのステップとなる」とかいいますが、まさにそれ。

マジで筋肉は裏切らない。

 

もう一つ印象的なのは、皆が応援してくれたこと。

たまに会う友人たちが「痩せたね」「頑張ってるね」と声を掛けてくれるのが凄く嬉しかった。

始めたときは、太った自分がちょっとした努力をしているのがなんでか恥ずかしかった。でも実際は馬鹿にする人なんてほとんど居なかった。

一生懸命やってると皆が応援してくれて、もっと頑張れるんだな~なんて、きっと小学生でもわかってるようなことが32にして、染みた。(これはきっと私と親の関係が絡んでいると考察しているので、また別の記事に。)

 

私にとって今の生活は、自分を好きになるためのトレーニングになっているように思う。身近な人間である親に否定され続けてきた事の弊害はあまりに大きい。

でも筋トレやってるうちにどうでもよくなるんじゃないかって気がしてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年の身の上話と、東京に恋した私

2016年7月31日 日曜日 

私は誰も居ない会社のデスクで1人、荷物をまとめていた。

全ては1ヶ月前から考えていたシナリオの通りだ。ロッカーとデスクを空にし、中身を紙袋につめる。くだらない社内研修会の資料などのいらない書類は全てシュレッダーし、インターネットブラウザのキャッシュを全て消去。この数ヶ月、職場のパワハラとイジメに耐え闘ってきたが、それも今日でおさらばだ。セリーヌの黒いラゲージの中には担当医の診断書が入ってる。それを使い慣れた複合機でコピーして上長のデスクに置き、社内メールを送った。「明日からもう来ないよ、お医者さんが行っちゃいけないって言ったから」って。

 

かくして私の平穏な日々(仮)がやってきた。

そして私はこの日、32歳になった。

 

32歳になっていた。

 

職場の女営業が仕掛けた嫌がらせに端を発したパワハラと、春先から闘っていた。  毎日胃を痛めながら、彼女にすっかり騙されている総務部長とも話し合いを重ねた。労基署にも記録を残し、メンタルクリニックに通い、抗不安薬を飲みながら、iPhoneのボイスメモを起動させながら仕事をしていた。

 

「ばっかみたい」

ある朝通勤電車の中で一体なんて馬鹿げたことをしているのかと目が覚めた。

出勤直後、生理で腹が痛いと仮病を使って帰った。月に2回の生理休暇制度、もっと早く使えば良かった。損した。息苦しい通い慣れたビルから一歩出て思った。空が青い!って。

最高に気分が良かった。いい天気だ。折角こんな時間に自由の身なんだからモーニングでも行っちゃえと前から行ってみたかった喫茶店に入った。焼きたてのパンが美味しい。お客も店員さんも皆ニコニコしている。私はなんて馬鹿なことをしていたんだろう、時間の無駄だとその時やっと気づいた。そこからできるだけ小利口に辞める方法を調べ、実行に移したのが記念すべき誕生日だった。

 

 

一種の自己防衛だったのだろう。

6月から、毎月有給をとって東京へ行くようになっていた。

 

東京には沢山の知らないドアがあって、開ける度に何故かポジティブになれる。

華やかな喧騒の横に存在する陰を見せつけられる度に、前を向かされる気がする。

ミスチルの曲みたいに、「新しい何かが待っていて、きっときっとって僕を動かして」はいない。本能的に何か明るいものをハントしに出かけているのだが、不思議と期待もない。

 

東京は意地悪な街だって、32歳の私にはお見通しなのだ。